岡山県第四選挙区(倉敷市・早島町)
倉敷・早島の地名を歩く。
(月刊『自由民主』09年8月号掲載)
議員をしていると、自分の地元の隅から隅まで出かけて歩きまわる。すると地域のふとした魅力や歴史との出会い、気づきがある。多忙ゆえついつい気持ちの余裕がなくなりがちだが、そういうものを感じる感受性と好奇心は残しておきたいものだ。
私の選挙区は岡山県第四選挙区、すなわち倉敷市(旧真備町、船穂町を除く)と早島町である。「白壁の町」として全国的に有名な観光地である倉敷美観地区を抱えているが、倉敷・早島の魅力はそれだけではない。土地の歴史的成り立ちと地名についてとりあげ、その一端を綴りたい。
中世まで、現在の倉敷市の平野部は「吉備の穴海」と呼ばれる海だった。酒津のあたりが高梁川の河口で、そこから干潟や砂州が広がり、島々が浮かんでいた。およそ四百二十年前、戦国時代末期の武将宇喜多秀家が早島から向山を経由して酒津まで堤防を築いたことから、人工的な干拓の歴史は始まるようだ。この堤は「宇喜多堤」と呼ばれ、今年は早島町では宇喜多堤四百二十年記念として多彩なイベントを行っている。そこから、わが地元の多くの地域が先人たちの努力により形作られ続けてきた。
そのような歴史があるため、倉敷市・早島町には地名に海に関わるものが多い。まず目につくのが「島」だ。西から東に向けて思いつくままにあげれば、玉島、柏島、八島、乙島、現高梁川を越えて片島、連島(つらじま)、亀島、水島、児島、そして羽島、松島、早島。ちなみにその先は岡山市箕島で、やっぱり島。こうした元の島々には神社仏閣があることが多い。玉島の羽黒神社や円通寺、倉敷・鶴形山の阿智神社や観龍寺、足高山の足高神社、連島の箆取神社、児島の鴻八幡宮、早島の鶴崎神社など。いずれも今は小高い丘の上にあるが、境内からの眺めは素晴らしい。瀬戸内海に面していればまさに多島美が広がるし、干拓の結果内陸部となっていても、今は田圃や市街地となっている平野部に、昔は行き交う船や投網を打つ漁師の姿なども見られただろうなと思わせる風景が一望できる。

(松島・両兒神社から南方を望む。ここは海峡だったのかな…)
源平藤戸の合戦の古戦場も倉敷にある。海を隔てて対陣中船が無く困った源氏方において、漁師から間道(おそらく干潮時に渡れる干潟)を聞いた佐々木盛綱がただ一騎、岩からざんぶと海に乗り入れて見事敵陣に一番乗り、という話になるわけだが、これはやはりその近辺が相当遠浅な海だった証拠だ。源氏方の陣は向山の南側あたり、平家方の陣は現在の藤戸寺あたりにあったという。その回りはすべて海。地名としては、粒浦、粒江、浦田、笹沖、沖。あるいは帯江、豊洲、早沖、早島町の前潟といった具合。いかにも干潟にふさわしい地名が続くではないか。種松山の南側でも、広江、福江、松江。また黒崎、赤崎、勇崎といった岬と思しき地名もある。玉島の沙美(さみ)は今でも砂浜の海水浴場があるし、その先倉敷市最西端は南浦(なんぽ)。東端は児島の琴浦、唐琴(からこと)。連島にも西之浦、宮之浦。美しさを感じる。
一方で、島以外で古くから人々が暮らす陸地だった地域も、地名にそういう空気を残す。まず平安時代の庄園の名残を示すその名もずばり庄。山地や栗坂もある。中庄、生坂、西坂、浅原。児島でも味野、本庄。児島では塩が特産品であった。そのまま塩生(しおなす)という地名に現れる。
倉敷市には南北に高梁川が流れるが、一時はその高梁川も西高梁川と東高梁川に分岐していた。明治時代の干拓で東高梁川は廃川となったが、概ね現在の水島臨海鉄道のルートに沿って現在の水島港に注いでいた。地名で辿れば酒津から、川入、水江、安江、四十瀬と続く。井戸を掘れば水も豊かに出たのだろう。上富井、東富井、西富井、福井。そして江長を抜けて現在の水島に至る。東西高梁川に挟まれる地域は文字通り中州、中島。

(現在の酒津は用水の取水口になっている)
干拓の目的は、当然ながら新田の開発。ずばり新田という地域もあるし、西中新田、西阿知町新田、福田には古新田(こしんでん)。北畝、中畝、南畝も田畑ならではの地名。水島の亀島近くの人々が開発したのが連島の亀島新田。その次の開発された地域だから鶴新田。なかなかユーモアもある。
ちょっと意識して歩き回っていると街の過去や歴史が蘇ってくる瞬間がある。眺めが変わって見えることもある。倉敷・早島でいえば、瀬戸内の海辺の町、干拓により先人が切り開いた土地としての姿だ。そしてさまざまな人々との出会いを重ねて今に至る。選挙区を歩くのも、決して苦労だけではない。
(橋本岳ブログ09.04.14より)
昨日(13日)は、朝街宣の後、企業などの挨拶回り。夕方、所属している倉敷青年会議所例会に出席。大原美術館理事長で倉敷商工会議所会頭の大原謙一郎さんの「まちと文化と国づくり―進化する「地方の論理と主張」を考える―」と題する講演があった。
恐ろしく多岐にわたる内容だったが、印象に残った言葉などを紹介する。
○地方から生まれたものが、日本をクリエイトしている。クリエイションエンジンとしての地方を復活させるべき。
○アメリカは、地方にいろんなクリエイションセンターを作ったことで再生した。シリコンバレー、オースチン、ナッシュビル、フェニックス、ハートフォード、アトランタ、ロチェスター、…etc.
○倉敷を自己紹介しようとすると、とても一言では言えない!クラスター型都市。旧倉敷、児島、玉島、水島、船穂、真備、それぞれに世界と繋がっている。他方岡山は、池田藩の大きなお城を中心としたモノセンター型都市。
○備中の国自体が、複雑多様。「備中 陣屋」で検索してみればよい。
○自己紹介できる街がたくさんあるのが国の強さ。イタリアなど。
○「文化は働く」。ただし、21世紀になれば文化の世紀になるかといえばそう甘くはない。明の部分:「クリエーションと生活のクオリティ」だけでなく、暗の部分:「異文化の融和と日本の風格」も働かないと生きていけない。
○日本と西洋が出会う場所が美術館。大原美術館は異文化理解の装置。だから「和服を着たベルギーの少女」が玄関を飾る。
○「文化は万能ではないが、何かの力はある」。
○地方都市から企業は生まれる。繊維産業でいえば、クラレ:倉敷、東レ:滋賀、帝人:米沢。
○繊維産業は、組み立て産業、機械産業、ファッション産業、かつ情報産業。
○たとえば浜松。遠州の豊田自動織機からトヨタができた。織機は木を使った精密な構造物。だからピアノもできる、、、ヤマハ、カワイ。(橋本付記。たぶん、同様の理由で木製模型づくりが発達し、金型も作れ、だからプラモデル産業も静岡が多いんだと思う。タミヤ、ハセガワ、フジミ、アオシマ、etc...浜松と言えばホトニクスもあるし。そういえば静岡大学工学部・情報学部は静岡ではなく浜松にあるのです)。
○諏訪。生糸の産地。相場でやり取りをしていた。明治時代、岡谷から横浜やニューヨークに直通電話があった…情報産業!
○久留米。ブリジストン、博多ラーメンの本家、松田聖子。
○京都ベンチャー。石門心学を語るベンチャーな人々。
○阪神間モダニズム。疎開してきた谷崎潤一郎がびっくりして書いたのが『細雪』。
○倉敷は、民間人のパワーが爆発した町。代官所はちっぽけで無防備。殿様のように力で抑えられない。入れ札(投票)で役人を選ぶ。民主主義の萌芽。
○メディアが伝えるのは首都の視点です。関東武家社会の日本支配はマズイでしょ。朱子学が基本。いいことも悪いこともさせない。東京オリンピックもヤメタ方がいいよ。そもそも東京はブラックホール。
○倉敷の「この指とまれ方式」…屏風まつり。町衆と行政とプロの連携。
◎結論。文化は一生懸命働くのだ。文化は地方で生まれる。倉敷は日本のクリエイションエンジンになって働くのだ。われわれはそれを再生させるためにがんばるのだ。そのことを共有したい。
考え方には全て共感。質問する時間があれば、道州制についてぜひ伺ってみたかった。今の47都道府県の存在が、個々の街の対外的プレゼンスを奪っている気がする。そこを大括りにすれば、むしろ地方都市を輝かせるきっかけになるのではないかと思うのだが。また、注意深く大原家の話を一切排除して倉敷を語られたのは、謙一郎会頭の謙虚でフェアなお人柄もあるだろうが、かえって倉敷の奥深さを感じることとなった。聞いてよかったです。あまりお話する時間がなくサンライズ出雲に乗らなきゃいけなかったことだけが、残念。