橋本岳はなぜ代議士になったのか
回り道の記、または橋本岳はなぜ代議士になったか ―世襲の実例と世襲議論への感想
いま、政治家の世襲が問題とされています。そして私は三代目の議員であり、世襲だと言われれば、全くその通りです。しかしなぜ私が父の後を継ぐ形で立候補をしたのか。決して一直線のレールに乗っていたわけではなく、回り道もありました。私が現在に至る経緯を「ホップ・ステップ・ジャンプ」の三段階で記し、世襲の問題についての考えを記したいと思います。
まず「ホップ」は子ども時代
一言でいえば、子どもの頃から「父親のようになりたい」、「かっこいい」とあこがれていたこと。それが「ホップ」です。父が帰宅することは多くありませんでしたが、祖父龍伍の意思を継いだ戦没者の遺族年金、遺骨収集や障害を持った方々とのふれあい、また父自身の生い立ちから保育園行政への情熱など、さまざまに仕事について語る父には、子どもとしてとてもあこがれました。 また私は生まれてから高校を卒業するまで、家族とともに岡山県総社市に育ちました。私にとっては岡山は断じてただの「選挙区」ではなく「故郷」です。そして故郷のために仕事をしている父が格好よかったし、のちに私が今の選挙区で政治家を継ぐ大きなエネルギーになりました。
次に思春期時代から20代までの「ステップ」
それは私なりの、父とは違う道を歩む反抗期でもありました。自分の手に職をつけ、自分らしい家庭を築く時期でした。私が地味でまじめなことを生かし、大学、大学院を出てシンクタンクに就職しサラリーマンとなりました。情報技術で社会を豊かにしたい。それから、地方自治体がもっと主役になってスピーディに仕事ができるようしたい。そんな研究を仕事としていました。父龍太郎とは、大学から研究所に至るまで全くアドバイスを求めることもなく、本当に自由に過ごしました。ただし同じ慶應義塾出身でまた剣道部も同じとあって、父とは目に見えない絆があり、そこは自慢に思ってくれていたと信じます。そして学部卒業直前に父が総理になり、その結果自動的に私は「総理の息子」となりました。
ただ一つ、自立を目指した私が学生時代に父にわがままを言ったことがあります。5人兄弟で生まれ育ちさびしがり屋で、かつ出会いに恵まれたこともあり、早く結婚したかった。「せめて学部は卒業しろ」と言われましたが大学院生での学生結婚となりました。女性には本当に理解のある父で、私はおかげで最愛の恋人をそのまますぐに世話女房にすることができ、やがて子どもたちの父親になりました。もちろん私もできるだけ早く迎えに行かなきゃと迎えに行く足も自然と速まります。当然自分の家の中もてんやわんや。これが共働き夫婦と子供たちの現実。母親が専業で愛情たっぷり子どもを育てるべきという建前はあっても、生活を考えれば妻も仕事をしなければ食べていけない。親も子も落ち着いて向き合える子育て環境がどうすれば実現できるのか、悩みました。これは政治家を目指した大きな動機の一つです。
そして三段階目「ジャンプ」は突然に
平成17年8月、当時の小泉総理は衆議院を解散しました。いわゆる「郵政解散」です。その一年前に、父は小選挙区に立候補しないことを表明している中で、普段おとなしい私が蛮勇を奮い「ジャンプ」を余儀なくされました。
結論から言えばこれは大失敗。小選挙区で落選し、ご支援いただいた皆さまに大変なご心配とご迷惑をおかけしました。「総理の息子」の突撃ジャンプでは当選に届かなかった。比例代表で復活当選したのはまさに命拾い。父を長年支えてくれた皆さまが「頼りない若造」の私の名前を投票してくださったお陰であり、今思えば誠に恥ずかしい限りです。この「初心」は「忘るるべからず」です。 なぜ13年ぶりに倉敷に戻って、立候補したか。
当時父の一億円問題、小選挙区での不出馬宣言(同時に、身内からも出さないとも発言しました)そして突然の小泉郵政解散まで、私たちを取り巻く状況は激震が続きました。父の潔白を信じているものの社会では黒いイメージが浸透し、不出馬発言により次回選挙の立候補者も宙ぶらりんな状態が続きました。正直、政治に対する志を秘めた私と、政治に対して冷めてきていた父との関係は悪化していたと思います。なかなか本音で話せないもどかしさもありました。そんな中急に解散となり、父の後援会の方から「岳君が出てみないか」というお電話をいただきました。民主党の候補者は猛烈な勢いで活動しており、自民党の橋本陣営は候補者すら決まらず出遅れている。しかし橋本から後継者が出ないと皆が納得しないというのです。正直、これは運命だと思いました。
こう書いていると、世襲議員は「非常に受け身」と思われるでしょう。これはその通りです。総選挙は時期を選ばず行われ、議員の引退も後援会次第という今のシステムでは、私も含め後継候補は受け身で出発せざるを得ません。
でも前回立候補を決める時の最後の決め手は、故郷岡山の「倉敷・早島」での選挙だということでした。「人生は長い。次にまた機会があるさ」「龍太郎でも危ないのに無理だ」「勝てる時、勝てる場所で挑戦したら」などいろんな意見があった。
ただ、私のこだわりは1つ。単純明快1つなんです。自分の生まれ故郷、岡山で、倉敷・早島で選挙したい。岡山で立候補できるなら、負けても絶対に挑戦したい。東京での生活を捨てて、故郷に帰ろう、すぐ帰ろう。そう思ったんです。突き動かされる使命みたいなものがドーンと自分に課せられてきた。誰にも譲れない、どんなにしても故郷で出たいと。親にも兄弟にも誰にも頼まれたことはないし、むしろ反対されました。でもどうしても最後は自分は、祖父、父と同じ故郷で戦いたかったんです。
東京の公立の小学校や幼稚園に通っていた3人の子どもたちのこと、妻の勤めなどいろいろ考えると、「自分には難しい」「選挙は勝てない」「家族に負担」という結論しか出てこない。でも自分の故郷で立候補できるならどんなことをしても周囲を説得しよう。家族とともに帰ろう。そして父のように郷土や国のために働きたい、だたその一心でした。あの数日間の自分のエネルギーはどこからでてきたのかわかりません。何を食べていたか記憶もありません。そして二回目の挑戦を前に
今、そんな自分に二回目の挑戦の時期がやってきました。こうやって振り返ってみると、この間に本当にたくさんの方が岳を育ててやろうという気持ちになってくださったこと、感謝感激としか言いようがありません。しかも、父を亡くし、何の後ろ盾もない私です。最初は妻一人だった理解者が、この戦いの前に、たくさんの皆さんに広がった。「龍太郎の二男坊」から「岳ちゃん」と名前で呼んでいただけるようになった。その活動の実感はこの手の中に感じます。いざ出陣です。そしてこの戦い、背水の陣。
命拾いしていただいたバッジをつけて仮免許運転した議員生活も、もうすぐ4年になります。
当選して1年も経たずに、父龍太郎が亡くなりました。あこがれた父も、反抗した父も、すれ違いばかりだった父も、もう墓の中です。父の棺を見送るとき、強く思ったことがあります。1つは、立派すぎる父ゆえに色々屈折したけど、私は父が大好きだったこと。その頑固さも怖さもすべてが好きだったこと。そして棺を見送る時悔しかったことは、その父親に次は、絶対に小選挙区で自分が勝利する約束をしたのに、報告する相手がなくなったこと。私は誰に報告すればいいのか、その時は途方に暮れました。
今、私たち橋本岳の家族は倉敷に暮らしています。当選後、倉敷に引っ越し、3人だった子どもは、父が亡くなった後に男の子が授かり4人となり、元気に倉敷で育っています。妻が選挙区にいてくれることで、私は絶対に国会を休まないことをモットーに、地道に勉強することができました。サラリーマン時代の経験も生かし、少子化・子育て対策や医療・介護・福祉の充実、地方分権や道州制等に取り組んでいます。 「二世議員は親の力を頼りにしすぎる」「世襲議員は能力で劣る」。何といわれても私はかまわない。私には関係がない。なぜなら、私はそのおかげで自分の専門性も身につけることができた。父に見た真摯に政治に取り組む姿勢と情熱の影響も身につけることができた。そしてなによりこの4年間まじめに国会議員の仕事をしてきた自負があるからです。この議員としての生活を見ていただければ、きっと「父親の背中を見ていた息子だからこそ、頑張れるやつもいる」とわかっていただけると、私は強く確信します。
世襲制限の議論について
そんな自分の経験を踏まえて、現在の世襲議員批判や、世襲制限について思うことを述べます。
親や家族に政治家がいる現職の議員や候補者が多いことは確かにその通りです。地盤・看板・鞄などと言われますが、普通の方々よりも恵まれた環境で立候補できることもあるでしょう。ただ、私の例で記したように、まっすぐ立候補に至る道筋を歩んでいる人ばかりではありませんし、立候補しても当選できるかどうかは本人の努力にかかっています。有権者の眼はしっかりと候補者を見て選んでおり、だから私は「総理の息子」でも前回小選挙区で落選したのです。候補者を制限しようとする話は、その有権者の眼の確かさを否定する立場に立っているように思えてなりません。
そして、自分が本当に受け継いだのは、たとえば本棚に入っていた一冊の本の記憶だったり、飲んだ時に父が語るさまざまなエピソード、そしてそこに含まれる「政治への情熱と志」なのだと思います。こういったことは、現在の世襲問題の議論では残念ながら全く語られることはありません。
なお私見ですが、世襲の議員が多すぎることに対しては、現職の政治家の引退や後継指名を政党が管理するような現職議員に対する改革が必要だと考えます。つまり、次に立候補する人の入口を制限するのではなく、政治家をリタイヤする出口について考え直すということです。そうなれば後継候補の公募のチャンスを拡大できるでしょう。また仮に将来私の子どもたちが「自分が生まれ育った倉敷・早島で立候補したい」という希望を持った時に、制度的にそのチャンスが全く与えられないというのは、おかしいことと思います。
民主主義が有効に機能するためには、さまざまなキャリアや世代、専門や背景を持つ議員が国会にいることが理想です。今でも、いろんな地域や職種の代表、スポーツ選手の方までおられ、そのことが議論の活性化につながっています。祖父・龍伍、父・龍太郎の想いを引き継ぎ、今政治の道を歩むよう努力しています。私橋本岳はその私の生い立ちと人生の中で、多様な人材が議論する場の一人として今後も襟を正して取り組む決意です。













